小屋暮らし・テント暮らし・Bライフ・野宿・サバイバルなどの情報を集めます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
ディオゲネスは現在、その思想よりも逸話によって知られる。
他にも数え切れないほどの逸話があり、シニカルの語源となった思想信条にふさわしい
人を食ったものが多い。これらの多くはおそらく、日本の一休噺のように、
ディオゲネスに仮託して作られた小話であろう。
ギリシアの人たちは、ディオゲネスを笑う一方で彼を愛した。
ある男によって彼が住居にしている甕が割られたとき、別の甕が与えられたという。
アレクサンダー大王がディオゲネスに会いに行き、
「なんでも欲しいものをとらせる」との発言に対し
「太陽の光が大王のせいでさえぎられているから、そこをどいてくれるのが
私の望みだ」
と答えた話が載っていなくて残念。
上のエピソードでは
広場で物を食べているところを人が見て「まるで犬だ」と罵られたので、
「人が物を食っているときに集まってくるお前たちこそ犬じゃないか」
と言い返した。
食べるのがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではないと主張した。
これって、いいですよね。
人間は、固定観念や先入観、そしてその時代による
道徳や規範に縛られます。
そういうものを守ることで本当に得をするのは誰か、
と問うこともなく。
基本的に、だれが何をしていようとほっておけばいい。
それができない。
鬱陶しくて窮屈な世の中です。
集団同調圧力と相互監視が行き届いた社会。
誰が得をしているのでしょうか。
かくあるべし、と信じていることは
なぜ、一度も深く考えてみることなしに
かくあるべし、と決めてしまっているのでしょう。
常識や世間とか言うもの、
一度考えてみて、吟味すべき対象かと。