毎年寝太郎氏の「
いつもの朝」を拝読し、
スタインベックの短編、「
朝食」を思い出しました。
開高健氏は、小説の中での食事の描写でもっとも魅力的なのは
朝食である と喝破したのだけど、
朝食を摂る習慣のない私には、まあ頭の中だけでの理解、
という残念な話になります。
以前書いた、へミングウェイの短編に出てくる食事について、
書いておられる方が。
「
へミングウェイ短編集(一)の中の気になる料理の描写」
寝る・食べる というのは、不足すれば病気か死に至るわけで、
そのために、本能の部分であるわけですが、
寝るのを、星を見ながら寝たいと思うか、
食事を、水の流れを眺めながら食べたいと思うか、
それは、個人の好き勝手なんですが、
そこに文化と文明があるわけで。
テントと寝袋 という文明の利器を持って、
屋外で寝るという行為で現代文化の否定を行うこと。
自然に近づこうとすること。
この狭間が面白いわけです。
モーパッサンを読んでいても、今の私たちからすれば
たいした都会でもない、パリ暮らしから離れ、
田舎に憧れる人たちが大勢いたとわかります。
ある学者は、「都会は人間を大量に殺すための装置」
だと指摘しており、イギリスの産業革命以後は、
それが延々と続いていると指摘しています。
文化や文明を命をかけて支えている、
そういう人たちが大勢いるのですが、
彼らは、人生とはなにか、自分とはなにかを
深く問うこともなく、働いたお金で「より良い製品」とされるもの
を買うために必死です。
休みの日は「ここに行くべき」と宣伝されている場所へ行きます。
残念なことです。
彼らは、徒歩で旅に出たいと言う人間の心を
理解することができません。
彼らの家系が、「もの」の進化=人類の進化
と信じてきたおかげで、
山も川も海も、昔とは異なるものになりました。
泳げる川は減り、海はゴミや油が浮いています。
彼らが進化だと、進歩だと信じた行為が、
取り返しのつかないことをやらかしたのですが、
気づいても、もうどうしようもないので、知らぬふりです。
それどころか、まだ、今も
どうでもいい「もの」を作るために必死です。
そして、その「どうでもいい もの」が文化だと必死で言い訳します。
Bライフとは、「もの」を見極める生き方でもあります。
「もの」が増えるのを嫌う人にしか難しい生き方です。
目の前に、パサパサの食パンしかなくても、
スタインベックやへミングウェイの小説があれば、
それを読みながら、おいしく食事ができる。
それが、人間のもつ文化なのですが。
パサパサの食パンの存在を否定し、もっと「おいしいもの」を
よこせ、と言う人には、Bライフは不可能かと。
死ぬまで、「もっと おいしいもの」を得るために働くしか
ないのですから。
そこに、終わりはないのです。もっといいものを求め続けるから。
「もの」に いいものを求めることに、終わりはありません。
作って儲けたい人たちが、ブランド戦略やマーケティングを
駆使して、常に「もっといいもの」=値段が高いもの
を 作り続けるので。
で、ものを欲しがる人の心は死ぬまで満足や幸福が一瞬だけの
淡いものになるのです。
このあたりは、いずれまた詳しく。